共産主義と聖書とその他もろもろ
お仕事にて、とある先生のお話を
聞いていたのだけれども
共産主義の話になったときに
ついこの間もその話題でたなーと
思い返しの振り返り
そのときの話は
共産主義のそもそもの始まりや
結局はあそこの組織が
やろうとしていることも
共産主義的なことであるとか
云々かんぬんのお話
共産主義とか平等の反面て
物事を自分で考えたりしない
そういう人間を増幅できるとこ
ここから先はよくある
陰謀論的なところにいくので
このあたりでやんわり
止めておくことにして
今日のセミナーで
その先生が話していた中に
聖書の中には
財産を与えたところ
それを増やしたものは褒めら
埋めたものは怒られたというような
くだりがあるとのこと
ここでキーになるのは
増やした量は関係がないという点
財産をタラントという単位で
表記しているそうなのだけれども
タラントはタレントの
語源になった言葉
これが比喩していることは
才能というものを
誰もが生まれるときに携えていて
それをいかすことが大切
もらったものは
大切に保管して
というのは一見堅実なように
見えるけれども
あらゆるものは
循環させてなんぼのもの
せっかくできることがあるのに
それを掘り返ししなかったり
そんなもの自分にはないやと思って
放置していたりとか
しがちだけれども
誰しもが自分固有の
稀有な特異なものはあるわけで
そういう思考にもっていかないような
風潮社会雰囲気になっている
その感じこそ
わたしにとったら共産主義的で
その先にあるもの
その人たちが企んでそうなことに
想いを馳せると
キキキキキーとなる
みんなおんなじ
平等のなかよしこよし
を唱えることは
耳障りがよくて
波風は立ちにくく
一見誰もが反論できないことだけど
そういうものが一番たち悪い
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