罪という概念の洗脳

罪については
比較的よく考えたりしていて
それは意識的にではなく
善と悪とか、二元論的なところからの
その先のことに
よく思いを馳せるから

いい悪いとか善とか悪とかって
その人の置かれている状況、立場によって
いかようにでもなって
絶対的に正しいことなんて
ないんだろうなって
だから
人が人を裁くことについてもよく考える

いけないこととかって
もちろんあるけれども
すべての事象を
型にはめることはできなくて
そもそも罪という概念があるから
罪が生まれている、あるのかなって
キリスト教の原罪のことについて
耳にする度に思う

生きてるだけで
産まれた瞬間から、罪ってすごいわ

それについてのいい悪い
正しい正しくないとか
どうでもよろしくて
個々人それぞれの好みで
セレクトしてね、と
だから、わたしの好み
あなたの好みは何なのか
誰かの意見を伺うのではなく
その都度都度の
自分なりの答えを出すこと
自分の感覚に気持ちに
耳を澄ますこと
友罪という映画を観て
罪については
ざっとそんなことを感じながら見ていて
そこに友達というものが加わる

友達って
自分が死んだら
哀しいと思ってくれる存在ってあって
わたしの死生観というか
これだけはしておきたいな
したいなということが
まさにこれで
自分が死んだときに
身内、肉親以外の誰かが
たった一人でもいいから
哀しんでくれる人が
いるといいなと
いたら人生全うできたな、したなって

わたしにとっても
相手にとってもの
大切な人がしたことが
たとえ嘘だとわかっていても
自分的判断でもまずいよそれってことでも
正しいとか正義とか
そんなもの
はなからわたしには
あってないようなものだから
その人に寄り添う
いつだってそのくらいの意気込

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