意識と感情と宗教
「意識」と「感情」の区別は
自分の中にあったけれども
そこに「思う」というものはさらに別物
という概念が入ってきて、あれ?となる。
今までの自分の中では
「感情」の中のいちアイテムに
「思う」ということが
勝手に入っていたのだけれども
「思う」という行為をするには
どうやら「時間を積み重ねることが必要」らしい。
例えば、何かしらの感情を自分が抱いたとしても
その感情が積み重なる、反復する、同じようなことが起こる
もしくは時間が経過し、その感情が発酵することによって
ようやくわたしたちは「思う」ということができるよう。
何かを「考え」たり「感じ」たり
感情がわきあがってきたり
そういう経験、体験は瞬間「今」のものであり
また、人はもちろんのこと
動物もそういうことはできるのだけれども
そこに人にはあって動物にはないものが「時間の厚み」
もっと簡単にいってしまえば「時間経過の概念」。
動物にはどうやら「今」しかないみたい。
「記憶」することはできるらしいので
だから「学習」することはできるのだけれども
「時間経過の概念」がないから
ある「経験」にたいしての
パターンの認識まではできるけれども
それぞれのパターンを接続して考える
ということまでは難しいって。
動物に聞いたわけでも
専門家の人から教えてもらったわけでもないので
どこまで定かなのかはわからないけれども
動物にとってとか、そのあたりにひっかかったわけでなく
時間の厚み、過去、未来、現在を感じて考えることって
どうしてもわたしは「今」にいづらくなってしまうから
欠点として捉えていて
「今」だけに集中したいなあとなっていたところ
極論に走るのはよくないなと、冷や水かけられる。
そして、この「思う」っていうのは
「祈り」という言葉に変えてもいいのではないかと
その本を読んでいる時に、ふっと思った。
いや、変えるのではなく
経験を通してわきあがってくる感情
そこから紡ぎ出される思いのその先に
「祈り」というのがあるのかなって。
「祈り」というと
どうしてもわたしは「宗教」を思い出させるので
あんまに好んで使いたくない言葉であったのだけれども
誰かの無事や幸せを祈ることって
とてもシンプルで、ごくごく自然にやっていること。
そしてそれってとっても人間的な行為なのかな、と。
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