一人称から二人称へ
「僕」や「わたし」ではなく
「僕たち」や「わたしたち」を主語にして物事を考えていく
を、これからの判断基準指針に据える
ということを目にしてはっとして
そのことを人と話していたら
「とある地方の村にいったとき、何かを決めるときは
みんなであらかじめどうするかを相談してから行動していた」
という話になって、そのことを聞いたその人は
「なんて時代遅れで閉鎖的なんだ」
と思った、と言っていた。
そこからたらたらっと
「みんながひとつの目標に向かって突き進んでいるときは
確固たる絶対的な答えが存在していたけれども
今のように多様な答えが同時に存在するようになると
立ち位置によって、なにがいいのかがわからなくなるし
確固たるものがなくなると、何を基準に答えを選択していいか
ぶれてきて、わからなくなるから、そのときに
自分や自分をとりまく大切な人たちのことを考えて
その人たちにとって善と思える選択をしていくという考え方は
いいのかもしれないね。」といったような話をした先日。
「僕」や「わたし」といった、個人的な考え方が薄れていくと
今のわたしたちの人間とは、また違った人種が育っていくのだろうなと
「人」というもののことについて考えていて思う。
100年、1000年前の人と、今のわたしたちは
姿形は似ているかもしれないけれども
考え方や思考など、相通じるものが果たしてあるのだろうか、など。
人間中心主義であった時代から
テクノロジーと融合していく「人」の
これからのことを考えていると
もしかしたら、今地球上に存在している
例えば「動物」であったり、「植物」、「鉱石」といったものも
わたしたちが知らないだけで
それらが主役の時代があって、今はそれがたまたま「人」であるだけで
その内、今のような「人」としての存在は、風化していくのかもしれない。
という想像が、膨らむ。
わたしたちみたいな存在が存在している瞬間なんて
地球の歴史からしたら、ほんの束の間に過ぎなくて
そんな生物が闊歩していた頃もあった
という、小さな歴史の一コマといつしかなり
テクノロジーと人が融合し、いつしか人は飲み込まれて
わたしたちがまだ想像できないような何かが
地球上を闊歩していることを想像する方が
今の社会が続いていることを想像するよりも容易すすぎる。
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